ここまでの人生の振り返り
ブログを再開するにあたり、自分のこれまでの人生を振り返ってみたいと思います。
この記事で、読者のみなさまに、私がどんな人間なのか、少しは理解してもらえたらなと思って書くことにしました。
小学校まで
私は、1970年代前半に、秋田県の南部の山奥の集落で生まれました。
こんな山道の先に人が住んでいるのか?というような峠道を上った先に、集落があります。
私が住んでいた当時は、それなりに人が住んでいて、小学校で100名を超える児童がいました。
当然、各学年1クラスでしたが、複式学級ではなかったです。
私の学年は、一番人数が多くて20人ちょっとでした。
山奥の小さな集落とは言え、普通にテレビ放送を見ることが出来ましたし、農協のAコープがあったり、魚屋もあったような気がします。私の近所には駐在所もあったし、酒屋や商店が並んでいました。床屋も何件かあったし、小学校も近かったので、集落の中でも開けたところでした。近くには食堂もあって、うちの祖父がよく連れて行ってくれたので、食堂のおばちゃんも私のことをよく知っていました。思い返してみれば、住民の数が少ないので、みんなのことをよく知っていたんでしょうね。
中学校まで
中学校は、2つの小学校から生徒が集まりますが、1クラス30人はいません。
他の小学校からは、どんな子たちが来るんだろうと思って、少々ドキドキしましたが10人いなかったと思います。女子は1人だけし、なんかがっかりした記憶があります。
中学校も特に、代わり映えのしない生活でした。
中学校3年生になり、進学先をどこにするのかを考えましたが、そこそこ成績が良かったので「秋田県立A高等学校」か「秋田県立横手高等学校」かの2択でした。
山奥の学校なので、大概の生徒は山をくだったところの高校に行って、成績がいい生徒は、A高校に行くのが一般的でした。A高校に行くのは多くて2~3人くらいという感じでした。
私の姉は、A高校に進学したので、高校生活の話を聞いていました。その中で、「いやだなー」と思ったのが、水泳の授業です。その当時は、A高校は、なぜか水泳の授業が厳しいという伝統があるらしく、泳げない私は。絶対嫌だと思っていました。
偏差値で比較すると、横手高校の方が偏差値が高く、県南でトップ、県内でも有数の進学校です。
A高校に行くにしても、横手高校に行くにしても、いずれも下宿生活なので親としては、かかる経費は同じということで、特に親からは、「〇〇高校に行け」という意見は無かったような気がします。
ということで、水泳が嫌だった私は横手高校一択でした。
模試の成績でも、横手高校は特に問題なく入学できるレベルだったので、迷わず受験。無事に合格しました。
山奥の集落から横手高校に進学するのは、久方ぶりの快挙でした。
今でも覚えているのは、高校入試のため、前日に横手市のホテルに泊まったことですね。受験するのも大変でした。ツインの部屋に父と泊まりましたが、父のいびきが強烈だったことを覚えています。
横手高校時代
そして、中学卒業とともに、横手市での下宿生活がスタートしました。
山奥の集落から、一気に横手市での生活がスタートしましたが、横手高校がある場所が山の中。私の下宿も高校のすぐ近くだったので、なんか中学校までの生活となんら変わらないような日常でした。
もちろん、その当時でも、自転車で20分くらい走れば横手市の駅前にいけるので、ちょっとした都会気分を味わえました。
CDのレンタルショップにもよく行きました。ジャスコやユニオン、カシワヤ楽器にもよく行きました。
いやー、懐かしい。
しかし、根が出不精で、人見知りもあり、内気なので、そんなに出かけることも無く、下宿に居たような気がします。高校時代は、一応部活に入りましたが、すぐに幽霊部員になり、退部届を出していませんが、部費も払っていないので、自然に退部。気が付けば、帰宅速攻部に所属していました。
進学校なので、日々の勉強は大変でしたが、学校生活は楽しくて、苦しくはなかったです。
いつも思うのは、「もう一度人生を送れるなら高校時代がいいな」ということです。
横手高校の卒業生は愛校精神が強いらしく、私も横手高校に進学したことを誇りに感じるし、横手高校がなぜか好きなんですよね。娘も横手高校に進学しましたが、娘ももちろん娘の同級生も、横手高校愛にあふれているようです。
先日、横手高校が57年ぶりの甲子園出場が決まった時も、娘の同級生たちも大盛り上がりだったようです。まだ、学生なのに「寄付したい」とか「甲子園に応援に行く」と言っているようです。
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