ここまでの人生の振り返り パート2
前回のブログでは、高校生活までを振り返りました。
今回は、その続きです。
横手高校時代
前回の記事に書きましたが、私は高校時代の3年間、横手市の下宿で生活していました。
実家に帰るのは週1回。長い時間をかけて、山奥の実家に戻っていました。
高校2年生の時に、実家が道路拡張工事のため立ち退くことになり、それを期に山奥の田舎から縁もゆかりもない湯沢市に引っ越すことになりました。
引っ越しした自宅から横手高校までは通える距離だったんですが、私は下宿生活を続けることになりました。
私が通っていた横手高校は、いわゆる進学校で、卒業生のほとんどが大学に進学します。
現在の秋田県の大学進学率が50%程度らしいですが、当時の大学進学率はもっと低かったはず。
山奥で育った私の場合、中学校の同級生で大学に進学したのは私1人でした。
1990年の日本の大学進学率は24.6%だったようです。東北は、これよりも低いはずですので、それを考えると横手高校の生徒のほとんどが大学に進学するというのは、驚異的な話だと思います。
だからこそ、昔は横手高校に進学するだけで、地元では一目置かれる存在となります。
大学受験~大学時代
で、私ですが、大学に進学したことはしたんですが、大学受験には失敗しまして、希望した大学には行けてません。
浪人も考えたんですが、高校の担任と相談し、欠員募集している大学に応募することにしました。
センター試験の成績だけで判定されるわけですが、なんとか補欠合格。全く進路として考えてもいなかった、某国立大学に進学することになりました。
大学生活は、秋田県を離れてアパートで一人暮らしです。
大学は同じ東北圏内でしたが、湯沢市や横手市よりは大きなまちでした。
大学生がいるまちは、当然、若者も多く活気がありましたね。
高校時代は、学校へ真面目に通い、勉強もそれなりに頑張っていましたが、大学生になると生活が激変。
1年生の前半は、それなりに大学の講義に行きましたが、それ以降は、行かなくなることが多かった。
気が付けば、単位をポロポロ落としていて、4年間で卒業できず、結局5年間通いました。
行きたくもない大学に行ったからだと、親には言ったりしましたが、普通に振り返ってみると、第1志望校に合格していたとしても、変わらない生活だったかもしれません、はい。
夜の番組のトゥナイトなどでワンレンボディコンの人たちがディスコで踊っているのを見てました。
織田裕二主演の「就職戦線異状なし」という映画をビデオレンタルで見てました。
そのバブルが崩壊し、一気に不景気に。
田舎の学生、さらに外にも出なかった私は生活の中で不景気の波を感じることはあまりなかったと記憶しています。
いわゆる就職氷河期時代でしたが、一般企業への就職を考えていなかったので就職活動自体をしていないので大変だったという記憶がありません。
大学の就職相談的なところにも行ったことがありませんでしたが、なぜかアパートに就職情報誌が届いたときはびっくりしました。
「自分で依頼した記憶が無いのに、なんでこれが届くのか??」とかなり不思議でした。
個人情報保護という考えが緩い時代の話です。
就職浪人時代
私ですが親の希望もあり、自分でも実家に帰るんだろうなというふわっとした考えがあり、様々な公務員試験を受けましたが、ことごとく失敗。
その当時、公務員は大人気で倍率が非常に高かったんです。
その時に、これが就職氷河期かと感じました。
その後の数年間は、公務員試験を受けては落ちるを繰り返してしまい、これではいかんと公務員試験の予備校的なものに通い、しっかり勉強することにしました。
すると一次試験は合格できるようになりました。
2次試験は半々くらいの合格率でした。
その当時、第一希望だったのが、裁判所事務官でしたが、2次試験で不合格でした。
合格した中から、実家から通えそうな職場があるところに決め、ついに就職しました。
すでに20代半ばを過ぎていました。同じ年代の人とは、すでに数年の差ですね。
そして、就職
秋田県内、それも実家から通えるところに就職したわけですが、そもそも生まれ育ったのが田舎の山奥で、高校は横手市に下宿、大学は県外だったので、湯沢市近郊で全く生活したことが無いので、実家から通える就職先でしたが、職場の同僚たちは全員初対面でした。
とは言え、高校も全員初対面の人ばかりだったので、特に何にも思わなかったですけどね。
ただ、地元出身者が多い職場なので、他の人たちは先輩後輩の間柄だったり、近所だったりしていましたね。

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